ブラック企業を「若者の『修行の場』」と考えてみる
ブラック企業では、低賃金で長時間労働、つらくても休むことを許されず、
いやといったら即座にクビになって追い出されてしまいます。
「従業員が労働を提供し、適正な対価を得る」という場ではなくて、
「企業が従業員に理不尽な義務を課す」という場になっていますよね。
これは要するに「雇用」じゃなくて「修行」なんじゃないかと思うわけです。
修行はつらく「理不尽」で、そして「尊いもの」
例えば、曹洞宗の総本山「永平寺」などでの「禅僧の修行」を考えてみます。
厳冬でも朝は4時半に起床し、毎日数回にわたる長時間の座禅、
厳寒の中の雑巾掛けなどの作務をこなし、かゆと一汁一菜しか食べず、
雪の中裸足に草鞋で托鉢に向かうような、つらく厳しい毎日。
我欲を捨て「無私」の心で、毎日を過ごします。
そしてこんなにつらい思いをしても、高給を得られるわけでも、
名誉を与えられるわけでもありません。
その代わり、この厳しい修行をやり遂げれば、やりぬいた者のみが知る
無形の素晴らしいもの、精神的な強さを得ることができ、
修行前よりも「深みを持った」人間に変わることができます。
修行はこのような「肉体的・精神的なつらさ」を
「尊さ・強さ・深み」などに変える「仕組み」と言えます。
しかし、経済原理、労働と適正対価の法則、労働基準法などの考え方から見れば、
この「修行の場」というのはは全く「理不尽」であり、
ブラック企業の環境と似ているようにも見えます。
しかし、その「理不尽さ」を通してしか得られない「尊いもの」がある
と考えるのが「修行」の考え方です。
「自分を変えたい若者」と「社会の無意識の要請」
一方、今の時代「自分を本気で変えたい若者」というのは
決して少なくないと思いますし、
その若者たちのうち「どうやって自分を変えたらいいかわからない」
という子は、とても多いのではないでしょうか。
そんな若者たちに「その場にいることで自分を変えることのできる場」
いわゆる「修行の場」を提供するという考え方は、
実は社会の「隠されたニーズ」「無意識の要請」として、
あるんではないかなと思ったりもします。
ここで、ブラック企業が自らを「修行の場」であると宣言し、
従業員も「自分は今『修行』をしているのだ」という自覚があれば、
ブラック企業は永平寺での修行の場と同等の価値を持つかもしれません。
本当の「ブラック企業」の問題点
一方、ブラック企業の問題点は
「優良で条件のよい企業」の顔をして従業員を集めつつも、
実態は「理不尽なことを強いる『修行企業』」だったという、
単純に「看板に偽りアリ」という部分が大きいのでは?と思います。
そしてもうひとつ指摘したいのは、
ブラック企業から従業員がゾロゾロ辞めたりしないのは、
ブラック企業で働くことの「修行性」というか
「ここにいれば、つらくても尊いものを得られるハズだ」という
予感のようなものを、従業員が少しでも感じているからなのではないでしょうか。
それをハタから見て「それは単なる思い込みだ!おまえはだまされてるぞ」と指摘し、
ブラック企業を糾弾し訴え、従業員を助け出してめでたしめでたしになるか?というと
そんなに単純なものでもないのかも?とも思うのです。
そこで例えば「ウチはブラック企業ではなく『修行企業』です」と宣言し、
永平寺のように「修行の場としての共同体」というコンセプトを掲げつつ、
入社希望者を募り、入社後の透明性も担保しつつ運営される企業があると、
結構よさそうな気がします。
もちろんそこには、しっかりとした理念を持った、
道元のような「優れた指導者」も必要だとは思いますが・・・。
国と国民が、ちゃんと考えるべき
でも、こういう若者の育て方って、明治維新時と戦後に失われた
「良き日本の伝統」だったのでは?と思います。
そしてこの伝統は「日本の素晴らしさ」として、
世界から尊敬されるようなことなんじゃないかな、と思います。
だとしたら国も、国民一人ひとりも、自分たちのこととして
このことをちゃんと考えないといかんなあと、思ったりするわけです。