「世の中の役に立つ人になれ」は「あなたも良質なコンテンツになんなさい」って意味?
photo by jean-pierre jeannin latour
「世の中の役に立つ人になれ」という言葉。
自分も小さいときに、よく言われました。
でも、具体的に何をしたら良いのかは
いまでもピンときていません。
良質なコンテンツがお金を生む(=価値がある)この時代には、
「あなたも良質なコンテンツになんなさい」という
メッセージとして受け取ることもできる。
そのおかげで「コンテンツ人間」という人たちが
増えてきたのでは?というハナシ。
「コンテンツ人間」?
当たり前ですが、本、DVD、音楽、テレビなどは、
自分を表現し続けることしかできません。
常に一方通行です。
もちろん会話はできません。
相手の反応がどうであれ、自分が思ったことを延々しゃべり続けて、
人の話を全く聞こうとしない人。
仮にそんな人のことを「コンテンツ人間」と名づけてみました。
人は「コンテンツ」で良いのか?
もし人が「コンテンツ」なら、コンテンツ(=情報)は変化しないので、
相手の反応や意見によってその場で「考えて」応えなくてよい。
人間はコンテンツであると同時に
「その場の状況に応じて変化するもの」(=非コンテンツ)という
側面がないと、人と交わることが難しくなります。
また「楽しくなければテレビじゃない」というように
「コンテンツ人間」にとっては、自分の「コンテンツ性」が
唯一の存在意義です。
自分の「コンテンツ性の高さ」を認めてもらえなかった場合、
自分の存在価値がなくなったように感じ、よりいっそう
「自分というコンテンツ価値のアピール」をするべく
自分のことばかり話し続ける、という行動をしてしまいがちです。
「コンテンツ人間」をどう扱うか?
こんな記事もありました。
「まともに会話出来ない奴は、人間扱いせずコンテンツ扱い・フリー素材と見做す」方がお互いにとって幸せか? - カキツバタ
自分のことばかり話して、人の話を聞かない
「コンテンツ人間」が自分の近くにいたら、
やっぱりウザイ、とか思ってしまいますよね。
でも「その人の話を聞いてあげる」ことで
少なくともその人の「役に立てる」ことになります。
これを続けていくことで「世の中の役に立つ」人に少しだけ近づく。
もちろん、会話というのは双方向であることがルールですから、
その人がこちらのハナシを聞かないとしたら、
その人の話も半分だけ聞いて、後はスルーでもOKでしょう。
それでも全く話を聞かない人よりも、その人にとって自分はありがたい存在になる。
半分でも自分の話を聞いてくれるわけですもんね。
それに「コンテンツ人間」そのコンテンツ性をとっても大事にしているので、
自分にとって有益なコンテンツを持っているかもしれない。
(自分にとって何が有益なコンテンツか、というのも、その時々によって変化しますし、自分の状況によっても変化しますよね)
昔から、こういう「ちょっと困った人」をある程度うまく扱えて、
その人が持っているコンテンツを有益なものに変えられる人が、
その時代の「世の中の役に立てる」人になってきたのでしょう。
いやいや、自分に向けて言ってますこれ。
道のりは長そうですが(^^;)